+概要
ヤークトティーガー駆逐戦車は、ティーガーI戦車の後継として1943年1月から開発が開始されたティーガーII戦車と並行してカッセルのヘンシェル社で開発が行われたもので、その背景には前線からの歩兵支援を行い、射距離3,000mで敵戦車を撃破可能な自走砲をという要求の具現化があった。
ドイツ陸軍兵器局第6課がヘンシェル社に提示した仕様では、マウス戦車が装備する予定だったエッセンのクルップ社製の55口径12.8cm戦車砲を搭載し、ティーガーII戦車とコンポーネントの共通化を図ることとされていた。
この要求に基づいてヘンシェル社は1943年4月に、2種の自走砲の基本設計案をまとめ上げた。
1つは機関室を車体後部に置いたティーガーII戦車と同系のもので、もう1つは機関室を前方に配するというものでどちらも一長一短があったが、これを比較検討した兵器局第6課では同年5月に生産面などを考慮して、後方に機関室を配した案を選択してヤークトティーガー駆逐戦車の基本仕様を具体化した。
これによるとティーガーII戦車の車体をベースとして戦闘重量は72t、エンジンと変速・操向機はパンター戦車と共通のものを用いて、装甲厚はティーガーII戦車に準じるものとされていた。
1943年10月20日には、木製のモックアップが東プロイセンのアリス演習場でアドルフ・ヒトラー総統に展示され、同年12月からザンクト・ヴァーレンティーン(オーストリア)のニーベルンゲン製作所で、ヤークトティーガー駆逐戦車の生産を行うことが計画された。
しかし同製作所がIV号戦車の生産に追われていたために、ヤークトティーガー駆逐戦車の最初の2両が完成したのは1944年2月になってからであった。
これに先立ちフェルディナント・ポルシェ工学博士は、ヤークトティーガー駆逐戦車の生産工程を簡略化するために、エレファント突撃砲などで採用した縦置きトーションバー式サスペンションを導入することをヒトラーに進言し、了承を得ていた。
この結果、最初に完成したヤークトティーガー駆逐戦車2両のうち第1号車は、縦置きトーションバー式サスペンションと片側8個の転輪(直径700mm)を装備したポルシェ式走行装置を装着して納入され、第2号車は従来の車内に置かれたトーションバー式サスペンションと、片側9個の転輪(直径800mm)を装備したヘンシェル式走行装置を装着して納入された。
両車は兵器局に引き渡され1944年5月5日より走行装置試験が実施されたが、この結果、ポルシェ式走行装置が要求された性能に達していないことが判明した。
このため1944年9月にはポルシェ式走行装置の廃止が決まり、この走行装置を装着して完成したヤークトティーガー駆逐戦車は10両だけとなった。
当初の予定では、1944年10月までに150両のヤークトティーガー駆逐戦車を完成させることになっていたが、結局1945年4月までに82〜100両以上が完成したに留まった。
数字が確定していないのは生産記録の不備であり、最小でも82両が完成していることは間違いない。
ヤークトティーガー駆逐戦車の車体は、長大な12.8cm対戦車砲を搭載する密閉式戦闘室を設ける関係から、ティーガーII戦車のものを約26cm延長した専用のものが用いられ、機関系はティーガーIIと同一となっていた。
戦闘室は装甲厚が前面250mm、側/後面80mm、上面40mmと他に例を見ない強固なもので、内部スペースを確保する関係から前面はわずかな傾斜角しか与えられていなかった。
主砲の55口径12.8cm対戦車砲PaK44は、Pz.Gr.43 APCBC-HE(風帽付被帽徹甲榴弾、弾頭重量28.3kg)を使用して、砲口初速920m/秒、射距離1,000mで252mm、2,000mで221mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹可能であった。
主砲の旋回角は左右各10度ずつ、俯仰角は−7〜+15度であった。
このようにヤークトティーガー駆逐戦車は、当時としては破格の攻撃力と防御力を備えた戦闘車両であった。
しかし、その強力な主砲と装甲のためにヤークトティーガー駆逐戦車の戦闘重量は70tにも達し、機関系はティーガーII戦車と同一であったため本車の機動性は劣悪で、さほどの戦果も挙げないまま1945年5月の敗戦を迎えることになった。
ヤークトティーガー駆逐戦車は、第653独立重戦車駆逐大隊と第512独立重戦車大隊のみに配備され、多くは後退戦、拠点防御などに使用された。
第653独立重戦車駆逐大隊はアルデンヌ攻勢(Unternehmen Herbstnebel:秋霧作戦)へ、第512独立重戦車大隊はルール地方防衛へと投入されている。
また特に、1945年3月10日のレマーゲン鉄橋の橋頭堡攻防戦への参加が有名である。
|