61式戦車
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+開発
61式戦車は、戦後初めて日本が国内開発したMBT(主力戦車)である。
第2次世界大戦に敗れた日本は連合国軍の占領下に置かれ、兵器の保持・生産を禁じられることとなった。
しかし1950年6月に朝鮮戦争が勃発したため、危機感を募らせたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の意向により日本は再軍備化することになり、1952年に警察予備隊が保安隊に改組された際に、アメリカ軍が保有していた兵器の供与を受けた。
戦車については、M4A3E8シャーマン中戦車およびM24チャフィー軽戦車が主に供与された。
これらアメリカ製戦車は、旧日本軍の戦車に比べて火力も防御力も大幅に上回っており、全体に溶接構造が採用されている点など、製造技術においても旧日本軍戦車とは格段の差があった。
しかし、これらの戦車は大戦中に開発されたものですでに旧式化しており、本家のアメリカ軍では戦後に開発されたM46パットン戦車や、M41ウォーカー・ブルドッグ軽戦車が主力装備となっていた。
1953年7月には朝鮮戦争が停戦し、そのちょうど1年後の1954年7月に日本では保安隊が改組され、陸・海・空の3自衛隊とそれを管理・運営する防衛庁が発足した。
当時アメリカ側から、韓国を始めアジア各地で使い古されたM41軽戦車とM46戦車を日本で再生して、そのまま自衛隊の装備にせよとの意向が伝えられており、これが実現すれば大量の新型戦車を装備できることから、陸上自衛隊では賛成の声が多く聞かれた。
しかし陸上自衛隊の一部幹部と、旧日本軍の戦車開発を手掛けた三菱重工業などのメーカー関係者はこれに反発し、戦後途絶えてしまった日本の戦車開発技術を復活させるために、MBTを国内開発するべきであると内局を説得する一方、エンジンなどの基礎研究を地道に積み重ねていった。
その甲斐あって、1955年に国産のMBTを新規開発することが正式に決定された。
この国産MBTには、「中特車」(略記号:ST)の呼称が与えられた。
1947年に制定された新憲法では日本の戦力不保持を定めていたため、日本が保有する戦車は保安隊時代から、戦力を想起させる「戦」の字を置き換えて「特車」と呼んでいた。
従って、「中特車」とは「中戦車」のことに他ならない。
1955年1月末に防衛庁陸上幕僚監部が提出したSTの開発目標案では、STは戦闘重量25t、主砲は90mm戦車砲を装備することになっていた。
当時陸上自衛隊が装備していたアメリカ製のM4A3E8中戦車は戦闘重量が34tあり、これに比べるとSTの戦闘重量25tというのは随分軽量であったが、これはアメリカに比べて山がちで水田地帯が多い日本では、M24軽戦車(戦闘重量18t)のような軽量な戦車でないと運用が難しいという意見が根強かったためである。
結局、STは戦闘重量35tの61式戦車として実用化されることになったが、軽量な戦車を求める声も依然根強かったため、防衛庁は1960年に61式戦車を補完する戦力として、アメリカからM41軽戦車を146両調達することを決定し、61式戦車と共に陸上自衛隊のMBTとして長らく運用されることになった。
1955年5月に陸上幕僚監部はSTの第1次要求性能案を取りまとめたが、その内容は以下のようなものであった。
・戦闘重量30t以下、車体長約6.0m、全幅2.8m以下、全高約2.0m
・主砲は90mm戦車砲、最大俯角15度、携行弾薬数50発
・エンジンは出力600hpの空冷ディーゼル、路上最大速度50km/h
また同じ月に、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」を含む一連のMSA協定が公布され、日本はアメリカから技術援助を受けて兵器の国産化を推進することになった。
このMSA協定に基づいて6月にアメリカから、90mm戦車砲を装備するM36対戦車自走砲が研究用サンプルとして自衛隊に貸与された。
このM36対戦車自走砲はM4中戦車の車体をベースにしており、戦闘重量は31t、オープントップ式の全周旋回式砲塔に、M46戦車と同じく50口径90mmライフル砲M3を装備していた。
同車を用いて射撃試験を行った結果から、90mm戦車砲を安定して射撃するには30t級の車体重量が必要であることが明らかになった。
このためSTは35t級の戦車として開発されることになり、1955年12月にSTの第1次試作車2両の製作が防衛庁からメーカー側に内示された。
STの開発は車体と砲塔を三菱重工業、主砲を日本製鋼所が担当することになっていた。
2両の試作車の内STA-1は1956年12月、STA-2は1957年2月に納入され、陸上自衛隊による試験に供された。
STには、三菱重工業製の新型空冷ディーゼル・エンジンが搭載されることになっていたが、この時点ではまだ完成していなかったため第1次試作車には代わりに、同社製の船舶用液冷ディーゼル・エンジンDL10T(出力550hp)を車載用に改修したものが搭載された。
第1次試作車の1つSTA-1は、旧西ドイツの戦後第2世代MBTであるレオパルト1戦車並みの低い車体形状を備えており、転輪の数も片側7個とレオパルト1戦車と同様であった。
しかし、STA-1は無理して車高を低くしたためにその分車体を延長しなければならず、車体長が要求案よりも長い6.60mとなってしまった。
一方、STA-2の方は要求案に近い形で製作されており、STA-1よりも車高が高い代わりに車体長は6.15mに抑えられ、転輪の数も1個少ない片側6個となっていた。
2両の第1次試作車は1957年4月まで慣らし運転が行われ、続いて領収検査、各種技術試験に供された。
試験において、車体が長いSTA-1はSTA-2よりも旋回性能が劣っており、車体後部の段差のために後方射撃の俯角が極端に制限されることが明らかになった。
このため、第2次試作車はSTA-2の車体形状をベースに製作されることになった。
1958年12月に第2次試作車2両の製作がメーカー側に内示され、STA-4が1959年11月、STA-3が1960年1月に完成した。
STA-3とSTA-4は、車体と砲塔の基本構造についてはほとんど違いが無く、主砲やエンジンも同じものが搭載されていたが、車長用キューポラの構造と、副武装の12.7mm重機関銃の装備方法に違いがあった。
STA-3では、砲塔上部の中央左側に後ろ開き式の砲手用ハッチ、中央右側に低めの全周旋回式車長用キューポラが設けられており、車長用キューポラの周囲にリングマウントを設けて12.7mm重機関銃を装備していた。
一方STA-4では車長用キューポラが、アメリカのM48パットン戦車のようなキューポラ型車長用銃塔に変更されており、銃塔前部に12.7mm重機関銃を装備していた。
この銃塔は全周旋回が可能で、12.7mm重機関銃は銃塔内から上下に俯仰させることができた。
このキューポラ型銃塔は元々、車長が安全に12.7mm重機関銃を射撃できるようにアメリカ軍が考案したもので、アメリカ軍ではM48戦車シリーズ(M48A1以降)と、後継のM60戦車シリーズに採用している。
またSTA-3には、砲塔後部バスル内の主砲用弾倉に動力式の半自動送弾装置が備えられていた。
これは弾倉内の主砲弾薬を、モーター動力で回転させながら砲尾の近くまで送り出すもので、装填手の負担を軽減して迅速に射撃を行えるように設置が検討されたものである。
この2両の第2次試作車を用いて1960年いっぱい各種技術試験、運用試験が続けられ、試験の結果が満足いくものであったため、同年12月にSTを陸上自衛隊のMBTとして採用することが正式決定した。
続いて、STの生産型仕様の決定作業と量産化の準備が進められ、1961年4月には「61式戦車」として制式化が行われた。
61式戦車の生産型では、車長用キューポラはSTA-4のような銃塔型となったが、12.7mm重機関銃は銃塔の上部にマウントを設けて外装式に装備するように変更され、銃塔内からの操作で射撃が行えるようにされた。
また、STA-3に搭載された半自動送弾装置はコスト等の理由で採用が見送られた。
量産化の準備に手間取ったため、61式戦車の生産型第1号車が陸上自衛隊に引き渡されたのは、制式化から1年以上経った1962年10月になってからであった。
61式戦車は1962〜74年の13年間に渡って生産が続けられ、合計560両が陸上自衛隊に納入された。
その後、本車の代替車両として開発された90式戦車の装備化に伴って、2000年末までに全車が退役した。
61式戦車は、動力機構のパワーパック化と自動変速が実現しなかった点、戦後第1世代MBTとしては登場時期が遅過ぎた点など幾つかの問題点はあるものの、戦後の技術的空白期を克服し、他国の戦後第1世代MBTに引けを取らない戦車を作り上げたことは評価できよう。
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+構造
61式戦車は主砲として、アメリカのパットン戦車シリーズに装備された90mmライフル砲を参考にして日本製鋼所が独自に開発した、52口径90mmライフル砲(61式90mm戦車砲)を装備しており、戦後第1世代MBTに分類されるが、115mm滑腔砲を装備し戦後第2世代MBTに分類される、旧ソ連のT-62中戦車は1961年から量産が始まっており、世代的には丸々1世代遅れて登場したことになる。
主砲弾薬はM318A1 APCBC(風帽付被帽徹甲弾)、M431 HEAT(対戦車榴弾)、M71 HE(榴弾)を主に使用し、M318A1を使用した場合砲口初速910m/秒、射距離1,000mで189mm厚のRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能であった。
これは、旧ソ連の戦後第1世代MBTであるT-54/T-55中戦車に搭載された100mmライフル砲とほぼ同等の威力である。
61式戦車の車内レイアウトは車体前部右側が操縦室、前部左側が変速・操向機の収納室、車体中央部が全周旋回式砲塔を搭載した戦闘室、車体後部がエンジンや冷却装置を収めた機関室となっていた。
車体後部に置かれたエンジンから前方に推進軸が伸ばされ、車体前部に置いた変速・操向機を通して前部の起動輪を駆動するようになっていたが、これは大戦中の旧日本軍戦車の動力伝達機構と同様である。
1955年5月に陸上幕僚監部が提示したSTの第1次要求性能案では、STはアメリカのM46戦車のようにエンジンと変速・操向機をパワーパックとして一体化して車体後部の機関室に収め、後部に配置した起動輪を駆動するようにすることが予定されていたが、当時の日本の技術力では動力機構のパワーパック化は困難だったため結局これは断念され、旧日本軍戦車と同様の機構が採用されたのである。
この動力機構のパワーパック化については、後に61式戦車の後継車両として開発された74式戦車において実現することとなった。
61式戦車は車体前部左側に変速・操向機を収納したため、点検・整備の際には車体前面装甲板を取り外すようになっており、前面上部装甲板のうち左側約3/4の部分が、取り外せるようにネジ止めのパネルとなっていた。
61式戦車の装甲厚は、車体が前面上部55mm、前面下部46mm、側面36mm、上/下面16mm、砲塔は前面114〜102mm、側面100〜40mm、上/後面40mmといわれている。
被弾確率が高い砲塔部の装甲を厚くするのは当然であるが、車体に比べて砲塔部の装甲が非常に厚くなっていることから、61式戦車は車体を戦車壕にダグインさせた状態で、敵戦車を待ち伏せ攻撃する運用を想定していたことが推測される。
主砲の俯仰角も−10〜+13度と、61式戦車とほぼ同時期に出現したレオパルト1戦車やフランスのAMX-30戦車に比べて俯角が大きく、これを裏付けているように思える。
61式戦車のエンジンは、アメリカやイギリスの戦後第1世代MBTがガソリン・エンジンを採用したのと対照的に、燃費効率が良く火災の危険も少ない、国産の空冷ディーゼル・エンジンを採用していた。
日本は戦前から他国に先駆けて、空冷ディーゼル・エンジンを国内開発して戦車に搭載しており、この点では非常に先進的であった。
61式戦車用のディーゼル・エンジンは三菱重工業が開発を手掛けており、1957年2月に最初の試作エンジンが完成し、改良を加えた上で同年8月に第1次試作車STA-1に搭載された。
12HM20WTと呼ばれたこのエンジンは、4ストロークの90度V型12気筒直噴式空冷ディーゼル・エンジンで、2基のターボチャージャーによって過給されており排気量29.6リットル、最大出力604hpを発揮した。
この12HM20WTディーゼル・エンジンは、第2次試作車STA-3とSTA-4にも搭載され、試験において判明した不具合を改良したものが12HM21WTディーゼル・エンジンとして、61式戦車の生産型に搭載された。
12HM21WTディーゼル・エンジンの最大出力は570hp/2,100rpm、最大軸トルクは200kg・mとなっていた。
61式戦車の変速・操向機は、前進5段/後進1段の二重差動(ダブル・ディファレンシャル)式手動変速・操向機で、パットン戦車シリーズに採用されたクロスドライブ式自動変速・操向機に比べると機構が旧式で、操縦が難しかった。
STの第1次試作車には、新開発の「ST式」と呼ばれるトルク変換機付き自動変速・操向機が搭載されたが、これはパワーロスが大きく故障し易かった。
当時の日本の技術力では根本的な改善は困難だったため、最終的に自動変速は断念されて手動変速の機械式変速・操向機に変更された。
最初に製作された機械式変速・操向機は、旧日本軍の四式中戦車(チト車)に採用されたものと同じ遊星減速歯車付きのクラッチ・ブレーキ式で、このため「チト式」の呼称が与えられていた。
チト式変速・操向機は1957年8月にSTA-2に搭載されて試験に供されたが、動力の伝達がスムーズに行かず故障し易かったため、差動歯車(ディファレンシャル・ギア)を入れることで改善を図った。
この二重差動式変速・操向機は第2次試作車に搭載され、試験の結果が良好であったため61式戦車の生産型にも採用された。
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<STA-1>
全長: 8.59m
車体長: 6.60m
全幅: 2.95m
全高: 2.23m
全備重量: 34.0t
乗員: 4名
エンジン: 三菱DL10T 4ストロークV型12気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 500hp/2,000rpm
最大速度: 45km/h
航続距離:
武装: 52口径90mmライフル砲×1
12.7mm重機関銃M2×1
7.62mm機関銃M1919A4×1
装甲厚:
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<STA-2>
全長: 8.14m
車体長: 6.15m
全幅: 2.95m
全高: 2.48m
全備重量: 34.0t
乗員: 4名
エンジン: 三菱DL10T 4ストロークV型12気筒液冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 500hp/2,000rpm
最大速度: 45km/h
航続距離:
武装: 52口径90mmライフル砲×1
12.7mm重機関銃M2×1
7.62mm機関銃M1919A4×1
装甲厚:
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<STA-3/STA-4>
全長: 8.07m
車体長: 6.30m
全幅: 2.95m
全高: 2.48m
全備重量: 34.0t
乗員: 4名
エンジン: 三菱12HM20WT 4ストロークV型12気筒空冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 570hp/2,100rpm
最大速度: 45km/h
航続距離:
武装: 52口径90mmライフル砲×1
12.7mm重機関銃M2×1
7.62mm機関銃M1919A4×1
装甲厚: 12〜124mm
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<61式戦車>
全長: 8.19m
車体長: 6.03m
全幅: 2.95m
全高: 2.49m
全備重量: 35.0t
乗員: 4名
エンジン: 三菱12HM21WT 4ストロークV型12気筒空冷ターボチャージド・ディーゼル
最大出力: 570hp/2,100rpm
最大速度: 45km/h
航続距離: 200km
武装: 61式52口径90mmライフル砲×1 (50発)
12.7mm重機関銃M2×1 (525発)
7.62mm機関銃M1919A4×1 (4,000発)
装甲厚: 16〜114mm
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<参考文献>
・「パンツァー2004年8月号 陸上自衛隊 61式戦車のディテール」 高城正士 著 アルゴノート社 ・「パンツァー2019年1月号 特集 61式戦車」 宮永忠将/前河原雄太 共著 アルゴノート社
・「パンツァー2016年4月号 懐かしの陸自MBT 61式戦車」 前河原雄太 著 アルゴノート社
・「パンツァー2004年5月号 61式戦車の開発とその時代背景」 高橋昇 著 アルゴノート社
・「パンツァー2008年9月号 陸上自衛隊MBTの試作車輌」 三鷹聡 著 アルゴノート社
・「陸上自衛隊のMBT 61式/74式/90式戦車の総て」 アルゴノート社
・「戦後日本の戦車開発史 特車から90式戦車へ」 林磐男 著 かや書房/光人社
・「陸上自衛隊の装備車輌 Vol.1 ’60年代編」 ガリレオ出版
・「世界の戦車(2) 第2次世界大戦後〜現代編」 デルタ出版
・「陸上自衛隊 車輌・装備ファイル」 デルタ出版
・「戦後の日本戦車」 古是三春/一戸崇雄 共著 カマド
・「自衛隊歴代最強兵器 BEST200」 成美堂出版
・「徹底解剖!世界の最強戦闘車両」 洋泉社
・「戦車名鑑 1946〜2002 現用編」 コーエー
・「自衛隊装備年鑑」 朝雲新聞社
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