+I号戦車の戦歴
I号戦車は簡単な車両であったが、当時のドイツの工業力はこの程度の車両を量産するにも不充分だった。
戦闘室、車体、砲塔などの各コンポーネントの生産数は常にアンバランスで、1933~34年の間には総計368両分の車体が生産されたのに対して、戦闘室と砲塔はわずか54両分が生産されたに過ぎなかった。
このため、最初に部隊配備されたI号戦車はオープントップの車体のみの状態で引き渡され、口さがない兵士からは「クルップ・トラクター」、「クルップの風呂桶」などと呼ばれた。
結局、LaSの第1生産ロットである1ゼーリエの150両には生産型の戦闘室と砲塔は搭載されず、クルップ社とダイムラー・ベンツ社が試作した軟鋼製の戦闘室と砲塔を20数両に搭載したのみで、大部分の車両は「クルップの風呂桶」のまま一生を終えることになり制式化もされなかった。
続いて863両生産されたLaS 2ゼーリエも、当初はオープントップの車体のみの状態で引き渡されたが、後から生産型の戦闘室と砲塔が搭載されている。
このLaS 2ゼーリエ以降の車両が「I号戦車A型」(Panzerkampfwagen I Ausf. A)として制式化され、1936年までに2~4ゼーリエで合計1,190両のI号戦車A型が生産された。
続いて前述のように、I号戦車B型が1937年半ばまでに5aゼーリエと6aゼーリエ合計で327両生産されている。
I号戦車が最初に配備されたのは、ドイツ陸軍最初の戦車編制部隊であるツォッセン自動車化教導コマンドであった。
1934年の夏までに、合計3両の試作車が配備されたという記録が残されている。
ちなみにそれまで同部隊が保有していた車両は、ルベツァール民生用トラクターとカーデン・ロイド豆戦車だけだった。
1934年秋、ツォッセン自動車化教導コマンドは4個戦車中隊と本部小隊から成る大隊2個の編制に拡大され、10月には同部隊は秘密裏に「第1戦車連隊」と命名された。
1935年春になると、各中隊は21両のI号戦車を装備するようになった。
中隊は4個小隊で編制されていたが、この時点では3個小隊のみがそれぞれ7両のI号戦車を装備し、第4小隊はまだ自動車を使ったダミー戦車で編制されていた。
これ以前の1934年春、オールドルフ自動車化教導コマンドが新たに編制された。
同部隊はやはり1934年10月に秘密裏に「第2戦車連隊」と改称され、この時点で4個小隊を持つ2個中隊が編制定数となっていた。
しかし実際はI号戦車の供給数が非常に少なかったため、1935年の初めになっても各中隊はわずか1両の「クルップの風呂桶」を持っているのがせいぜいだった。
この部隊に最初の砲塔付きI号戦車が到着したのは1935年2月で、6月になってようやく各中隊は9両のI号戦車を保有できるようになった。
1935年夏、ミュンスターでI号戦車を装備する2個戦車大隊による軍事大演習が行われた。
これに参加したのは2つの自動車化教導コマンドから選抜された戦車隊員たちで、自動車化歩兵大隊やその他の機動部隊、さらに地上部隊の直協支援を行う航空部隊との共同攻撃などが実演された。
この演習は、ハインツ・W・グデーリアン大佐が提唱した戦車の集団運用戦術の有効性を確認することを目的の1つとしており、結果として集団運用戦術の有効性が充分実証されたため、ドイツ陸軍は3個の完全装備の機甲師団の編制に着手することになり、グデーリアンは第2機甲師団の師団長に任命された。
機甲師団は2個戦車連隊から成る完全装備の機甲旅団が基幹になっており、各連隊は2個戦車大隊、各大隊は4個戦車中隊の編制であった。
またこの間I号戦車は、ドイツ国防軍の力を誇示する大規模な大衆宣伝活動のシンボルとしての重要な役割も担っていた。
I号戦車は1938~39年におけるオーストリア、ズデーテン、ボヘミア、モラヴィアなどの無血占領作戦で初めて本格的に使用された。
この時は実際の戦闘は行われなかったが、ドイツ軍の戦車戦力がまだまだ信頼性に欠けることや兵站面の不備といった面で多くの教訓が得られた。
I号戦車の真の実戦参加は、1936年に勃発したスペイン内戦においてであった。
およそ100両のI号戦車がスペインに送られて、フランシスコ・フランコ将軍が率いる右派の反乱軍に参加した。
最初の50両は1936年9月に、残りは1937年に到着し、ドイツ軍のコンドル連隊や第88戦車集団の3個訓練中隊に配属されたが、実戦での運用はスペイン人の手によって行われドイツ人は訓練教官の役を務めた。
この戦争で、I号戦車の限界はすぐ明らかになった。
最大厚13mmの装甲は小火器弾にしか耐えられず、共和国軍が保有する45mm戦車砲装備のソ連製T-26軽戦車やBT-5快速戦車などとの戦闘では全く何の役にも立たなかった。
一方攻撃力の面では、I号戦車が装備する7.92mm機関銃ではソ連製戦車の装甲板に傷を付けることさえできなかった。
I号戦車は元々戦車乗員の訓練を主目的として開発された車両であり、実際の戦闘に用いることはあまり考慮されていなかった。
あくまでも、ドイツ陸軍がもっと強力な戦車を揃えるまでのストップギャップとしての存在でしかなかったのである。
しかし戦車戦力の急速な拡大と本格的な戦車開発の遅れは、1939年9月のポーランド侵攻作戦(Unternehmen Weiß:白作戦)に至るまで、I号戦車に主力戦車としての広範な役割を担うことを課したのであった。
9月1日の白作戦開始時には合計1,445両のI号戦車が稼働状態にあったが、これは当時のドイツ陸軍の全戦車数3,195両のほぼ半数にも達していた。
ポーランド戦ではI号戦車特にA型は機動力の弱点を現して、ポーランドの泥沼に足を取られることが多かった。
またA、B型共に、ポーランド軍の対戦車火器に対しては完全に無力だった。
この時の対戦車火器によるドイツ陸軍戦車の損失は217両に達し、この内150両はI号戦車であった。
次のI号戦車の活躍の機会は、1940年4月9日に開始されたノルウェイ侵攻作戦(Unternehmen Weserübung:ヴェーザー演習作戦)であった。
ノルウェイに派遣された第40戦車集団には、40~50両のI号戦車が配備されていた。
ここではノルウェイ軍の対戦車火力が不足していたため、I号戦車は充分その任務を果たすことができた。
1940年5月10日に開始されたフランス侵攻作戦でもなお、ドイツ陸軍の保有するI号戦車は1,077両に上った。
この内直接戦闘に参加したのは554両で、主にドイツ陸軍の攻撃の右翼を担当し、主攻撃部隊の脇腹を守る役目と敵の注意を引き付ける役目を果たした。
戦闘は激しく、フランス戦終了時に稼働状態で残ったI号戦車はわずか150両強に過ぎなかった。
フランスにおける電撃戦の大戦果を受けてドイツ陸軍の機甲戦力はさらに拡大され、機甲師団の数が倍増されたのに伴って、戦車大隊の数も35個から57個へ増加された。
元々ドイツの工業力は充分な戦車を供給できずにいた上、このような大規模な部隊数の拡張によって、I号戦車は新編される戦車部隊にまだまだ必要とされることになった。
損傷したI号戦車は工場に送り返して修理され、1941年初めには再び1,079両が使用可能になった。
1941年3月、25両のI号戦車が第5軽機械化師団第5戦車連隊に配備されて北アフリカに送られ、続いて4月には第15機甲師団第8戦車連隊所属のI号戦車が北アフリカに送られた。
北アフリカに送られたI号戦車は換気装置が改良され、熱帯地用の大型フィルターが装備されており「Tp」(Tropisch:熱帯)タイプと呼ばれる。
I号戦車は1941年4月のユーゴスラヴィア侵攻、ギリシャ侵攻などでも戦闘に参加しており、ソ連侵攻作戦(Unternehmen Barbarossa:バルバロッサ作戦)が始まった1941年6月22日の時点でも、まだ180両が前線で使用されていた。
しかし、装甲も武装も非力なI号戦車を強力なソ連軍戦車との戦闘に用いるのは荷が重過ぎ、毎月の損耗数は1941年6月が34両、7月が109両、8月が141両にも上った。
もはやI号戦車を戦闘に使用するのが限界なのは明らかであり、次第に後方の任務へと下げられていった。
1942年には、ロシアや北アフリカの前線で見かけられるI号戦車はすでにほとんど無かった。
第一線から退いたおよそ700両のI号戦車はその後訓練部隊や国内の警備部隊、フランスやノルウェイその他の守備隊などで細々と使用が続けられた。
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